フーテン老人「ヒラメ」のブログ

フーテン老人「ヒラメ」が、雑記ブログを始めました。

俺のパソコン遍歴

俺は76歳7ヶ月になったが、この年齢にしては、そこそこパソコンが使える方だと自負していた。
ところが、今は高齢の爺さんでも結構パソコンが使える人が増えて、自慢の種が無くなってしまった。
20年前だと俺の当時の年齢では殆ど見かけなかったのでチョット残念。


俺が大学2年、今から56年前にそれまで趣味にしていたアマチュア無線に少し嫌気が差し掛かっていた。
それまで、送信機や受信機は真空管で手造りが常識だったのが、アマチュア無線ブームに乗ったメーカー製が沢山出てきて、アマチュア無線技師ではなくアマチュア無線通信士ばかりで話題がつまらなく感じ始めていた。


そんな時、無線雑誌に外国の大学生がコンピューターを手作りした記事などが紹介されているのを見て、これは面白そうとは思ったが貧乏学生には無理なので俺には無縁のものと思っていた。
俺の通っている大学は美術大学で電気工学と無縁の勉強をしていたが美術より電気工学の方が好きだった。


機会が在って相模原の富士通のパルスモーターの工場を見学させてもらった時、FANACというミニコンを初めて見た。
ニコンと云っても家庭用冷蔵庫くらいの大きさで、多分その頃の価格で数千万円、今の価格で数億円はしたと思う。
しかし、能力はと云うと用途が違うので一概に云えないがファミコンより下だったろうと思う。
CPUは無く、全て論理回路のICで構成されており、メモリICはまだ無かったのでコアメモリという小さなトロイダルコアに銅線を十字に通したものを使っていた。
主な用途は工作機械の自動運転で、最近でもテレビでよく見るベルトコンベアの両側に並んでる工作機械のアームをプログラム通りに動かす事で、プログラムは昔の映画に出てくるテレックスの紙テープのようなもので動かしていた。
これでロボットアームを自在に動かし、マシニングセンタも動かしていた。
俺が「こんな高価な機械を作るより人を雇った方が安いのでは?」と質問すると「確かにその方が遥かに安い、だけどこの工作機械は賃上げ要求もしない、労働争議も起こさない、24時間働き夜も照明なしで生産を続ける、ドリルの刃が摩滅するとそれを自動で検知し自動で研ぎ短くなった寸法で加工寸法を補正して休みなく動作する。
長い将来はこっちの方が安くなる」との事だった。


この富士通の工場では当時世界の80%のパルスモーターを作っているとの事だった。
パルスモーターはステッピングモーターとも言い、コンピューターの指令どうりに回転するモーターで小型のものはプリンターの中で何個も使われてる。
この時富士通で作っていたのは電気油圧パルスモーターという何馬力もある大きな物だった。
この当時に観たコンピューターというものが、翌年には俺の机の上に在ったのだから、電子技術の発展は凄いと思った。


事の始まりは諏訪精工舎という歯車式のキャッシュレジスターを作っている会社が電子化したいという事で設計し始めたが、論理回路を1個にまとめた、今でいうCPUでないと一般の商店に置ける程の大きさと価格が実現出来ない、電子工学に強い従業員達が初期設計を完成させ役員会の承認を取りつけた。
このアイデアを日本国内の日立や東芝NECなどのICメーカーに持ち込んだが採算が取れないと断られ、当時まだ零細企業だったアメリカのインテルに依頼した。


ここで諏訪精工舎が大失敗したのは、開発に時間がかかる事や設計変更による膨大な追加予算などに嫌気がさして、完成直前に開発中止を決断してしまった事。
インテルも当時は海外との契約に不慣れだったため、諏訪精工舎が手を引いたために倒産の危機に陥り、契約破棄の代償の一部で手に入れたCPUのアイデアを製品として完成させることが急務となった。
そこで急遽完成させた4ビットCPU「4004」を世に出した。
その後8ビットのCPU「8008」次いで「8080」、「8080A」と改良を加え、世界にパソコンブームが起こった。
日本でもNECがパソコンのトレーニングキット「TK-80」を発売した。
今まで、完全空調の特別室で一部のエリート社員しか触れさせて貰えなかったコンピューターが、自宅で操作を体験できるとあって爆発的に売れた。
このCPUで有名になったインテルは、その後に世界最大のICメーカーとなった。


俺も最初のパソコンは「TK-80」だった。
これでパソコンの動作原理を理解したのがのちに大変役に立った。
この時、まだ電卓は無く、父の会社でも歯車式計算機「タイガー」と算盤だけだった。


その後、「PC-8000」というPCを入手、「BASIC」でようやくアセンブラとお別れできたが、それでも理解できたのはお遊びレベルだった。
コボル」や「フォートラン」もあったように記憶してるが、いずれも大型コンピューター用でパソコンでは無理だった。


NECは日本のパソコンの先駆者となり「PC-9800」シリーズで多くの製品を販売した。
俺はNECが京セラにOEMで作らせた「PC-100」を入手、これはビジネス用を目指したPCでジャストシステムの日本語ワードプロセッサ「JS-WORD」と表計算ソフト、マイクロソフト「マルチプラン」が素晴らしかった。
ジャストシステムの「JS-WORD」はその後「太郎」、「一太郎」と発展して現在に至る。
表計算ソフトはより高性能だったロータスの「1-2-3」に市場を奪われ、さらにマイクロソフトExcel」が奪い返した。
この頃HDDを初めて入手、3.5インチで40MBだった。
今じゃ、SDカードでも入手が難しいほど容量が少ないが、当時はDOSでは使い切れないほど容量が大きいと感じていた。


諏訪精工舎は、もし開発中止をしなかったらIBMを超える世界一のコンピューターメーカーになったかも知れない。
この会社は後に社名が「セイコーエプソン」と変わり、世界最小の親指の爪程のプリンターと世界最大の横幅16mのプリンターを開発して世界を驚かせ、「エプソン」という社名のプリンターで有名なメーカーになった。


ある時、ハヤック2000という両袖事務机ほどの大きさのコンピューターのジャンクを入手した。
某企業が事務用として一部上場前に使っていたもので、まだ、CPUの無い時代の代物で紙カードリーダーとパンチャそれに紙テープリーダーとパンチャが両袖にあり、中央にIBMのゴルフボールタイプライタがありA4の紙にも印字できたが英数字と記号とカタカナしか印字できなかた。
メモリはコアメモリだった。
電源トランスだけで30cm四方ほどあり、家庭用100Vで動いたが、我が家の電力の全てを使い切る。
電力計がモーターみたいに回るのを家内に発見されて、使用禁止になってしまった。
使わない物を置いておくほど我が家は広くないので、屑鉄屋に売ってしまったが接点が金メッキでは無く箔を貼ったものだったので入手したより高値で売れた。


俺はパソコン自作派になったが、金が無いのでこれといって特徴のあるパソコンは一台も残ってない。
DELLのジャンクのワークステーションを修理して長年愛用していたが長女が仕事用のパソコンが壊れたというので譲ってしまった。
現在使用しているパソコンは非力なWindows10のものと、さらに非力なLinuxのものだけ。