フーテン老人「ヒラメ」のブログ

フーテン老人「ヒラメ」が、雑記ブログを始めました。

新しいテレビ

新春の8日に新しいテレビが来た。

55インチで4K、ジャパネットと契約している電気店が持って来た。

セットしてくれたのだが、俺んちはケーブルテレビ、チューナーの詳しい設定が判らないらしくて、リモコン二つで操作しないといけない。

 

電気店が帰ったあとで、自分でセットし直し、1つのリモコンで全ての操作ができるようにした。

古いテレビはパソコンのモニターにしようと思ったが、47インチあって大きすぎるので処分して貰った。

モニター用アームが余ってしまったが、その内丁度良い大きさのモニターを買いたい。

 

中国のトイレが怖い

左足が人工関節なので深く曲げられない。

 

 

 

10年程前に中国へ行った時、ドライブインのトイレが便器は無く、溝があって定期的に水が溝の一方から流れてくるタイプ、おまけに間仕切りは有るがドアは無い。

用を足した後の紙は流すと詰まるのでトイレの隅に盛り上げてある。

だから臭い、床は汚れていて膝がつけない、本当に困った。

我が屋の料理は俺の手作り

正月料理も尽きたし、おでんの作り置きも、もう飽きた。
家内が久しぶりにカレーを食べたいという。


俺のカレーは我が家流で手抜きカレーだが、自分でも旨いと思ってる。
ルーは既成のゴールデンカレーの辛口、ちょっと変わってるのはカツオ出汁を少し多めに入れる事とマイタケか無ければブナシメジを1パック少し小さく切って投入、キノコが無ければカレー作りは中止、作った日は食べず、翌日から食べ始める。


少しシャブシャブの柔らかいカレーが家内の好みなのでトロミは付けない。
家内が料理を作ってた時よりも俺の方が旨いという。
昔は市内のカレー専門店へ食べに行く事もあったが、自分で作った方が旨いと思うのと、運転免許を返上して車が無いので何処へも行かなくなった。


餃子も我が家では定番料理だが、これも思い切り手抜きで既成の冷凍餃子。
但し、焼き餃子は作らない、買って有る餃子が焼き餃子用であっても水餃子か蒸し餃子にする。
焼き餃子は早く食べられるが味が濃厚すぎるので、我が家の好みに合わない。


実は俺の母親が満州に居たころ、中国人の使用人から教わったのは水餃子や蒸し餃子ばかりで、その頃は既製品の餃子などと云うものは無く、皮も具も全て手作りで、作るスピードが早かった。
俺が中高生の食べ盛りの頃は親も若かったので家族で一人50個くらい、ごはんもその他のおかずも無しで食べた。
今は8個も食べたら腹いっぱいになる。


東京にある大学に通うようになって、自炊生活がメインだが近くのラーメン屋に通うことも多くなったが、そこで初めて焼き餃子を知った。
気が付けば東京のラーメン屋は焼き餃子ばかり、それまで地元ではラーメン屋などに行ったことがなかったので知らなかっただけかもしれない。


その頃の習性で焼き餃子は好きになれない。


中国の西安に行ったとき餃子専門店で食べたのも水餃子や蒸し餃子ばかり、店員に聞くと日本人から特別に注文があれば作るが、普段は作らないとのこと、焼き餃子は日本に渡った中国人が考案したものなので、中国では一般的では無いそうだ。
西安では回教徒が多いので、豚肉は禁止、牛肉と羊肉ばかりだが味は絶品、この味は日本には無い。
本当はもっと食べたいのだが、高齢になって胃が弱いのか、消化剤を飲まないといけなくなる。

俺のパソコン遍歴

俺は76歳7ヶ月になったが、この年齢にしては、そこそこパソコンが使える方だと自負していた。
ところが、今は高齢の爺さんでも結構パソコンが使える人が増えて、自慢の種が無くなってしまった。
20年前だと俺の当時の年齢では殆ど見かけなかったのでチョット残念。


俺が大学2年、今から56年前にそれまで趣味にしていたアマチュア無線に少し嫌気が差し掛かっていた。
それまで、送信機や受信機は真空管で手造りが常識だったのが、アマチュア無線ブームに乗ったメーカー製が沢山出てきて、アマチュア無線技師ではなくアマチュア無線通信士ばかりで話題がつまらなく感じ始めていた。


そんな時、無線雑誌に外国の大学生がコンピューターを手作りした記事などが紹介されているのを見て、これは面白そうとは思ったが貧乏学生には無理なので俺には無縁のものと思っていた。
俺の通っている大学は美術大学で電気工学と無縁の勉強をしていたが美術より電気工学の方が好きだった。


機会が在って相模原の富士通のパルスモーターの工場を見学させてもらった時、FANACというミニコンを初めて見た。
ニコンと云っても家庭用冷蔵庫くらいの大きさで、多分その頃の価格で数千万円、今の価格で数億円はしたと思う。
しかし、能力はと云うと用途が違うので一概に云えないがファミコンより下だったろうと思う。
CPUは無く、全て論理回路のICで構成されており、メモリICはまだ無かったのでコアメモリという小さなトロイダルコアに銅線を十字に通したものを使っていた。
主な用途は工作機械の自動運転で、最近でもテレビでよく見るベルトコンベアの両側に並んでる工作機械のアームをプログラム通りに動かす事で、プログラムは昔の映画に出てくるテレックスの紙テープのようなもので動かしていた。
これでロボットアームを自在に動かし、マシニングセンタも動かしていた。
俺が「こんな高価な機械を作るより人を雇った方が安いのでは?」と質問すると「確かにその方が遥かに安い、だけどこの工作機械は賃上げ要求もしない、労働争議も起こさない、24時間働き夜も照明なしで生産を続ける、ドリルの刃が摩滅するとそれを自動で検知し自動で研ぎ短くなった寸法で加工寸法を補正して休みなく動作する。
長い将来はこっちの方が安くなる」との事だった。


この富士通の工場では当時世界の80%のパルスモーターを作っているとの事だった。
パルスモーターはステッピングモーターとも言い、コンピューターの指令どうりに回転するモーターで小型のものはプリンターの中で何個も使われてる。
この時富士通で作っていたのは電気油圧パルスモーターという何馬力もある大きな物だった。
この当時に観たコンピューターというものが、翌年には俺の机の上に在ったのだから、電子技術の発展は凄いと思った。


事の始まりは諏訪精工舎という歯車式のキャッシュレジスターを作っている会社が電子化したいという事で設計し始めたが、論理回路を1個にまとめた、今でいうCPUでないと一般の商店に置ける程の大きさと価格が実現出来ない、電子工学に強い従業員達が初期設計を完成させ役員会の承認を取りつけた。
このアイデアを日本国内の日立や東芝NECなどのICメーカーに持ち込んだが採算が取れないと断られ、当時まだ零細企業だったアメリカのインテルに依頼した。


ここで諏訪精工舎が大失敗したのは、開発に時間がかかる事や設計変更による膨大な追加予算などに嫌気がさして、完成直前に開発中止を決断してしまった事。
インテルも当時は海外との契約に不慣れだったため、諏訪精工舎が手を引いたために倒産の危機に陥り、契約破棄の代償の一部で手に入れたCPUのアイデアを製品として完成させることが急務となった。
そこで急遽完成させた4ビットCPU「4004」を世に出した。
その後8ビットのCPU「8008」次いで「8080」、「8080A」と改良を加え、世界にパソコンブームが起こった。
日本でもNECがパソコンのトレーニングキット「TK-80」を発売した。
今まで、完全空調の特別室で一部のエリート社員しか触れさせて貰えなかったコンピューターが、自宅で操作を体験できるとあって爆発的に売れた。
このCPUで有名になったインテルは、その後に世界最大のICメーカーとなった。


俺も最初のパソコンは「TK-80」だった。
これでパソコンの動作原理を理解したのがのちに大変役に立った。
この時、まだ電卓は無く、父の会社でも歯車式計算機「タイガー」と算盤だけだった。


その後、「PC-8000」というPCを入手、「BASIC」でようやくアセンブラとお別れできたが、それでも理解できたのはお遊びレベルだった。
コボル」や「フォートラン」もあったように記憶してるが、いずれも大型コンピューター用でパソコンでは無理だった。


NECは日本のパソコンの先駆者となり「PC-9800」シリーズで多くの製品を販売した。
俺はNECが京セラにOEMで作らせた「PC-100」を入手、これはビジネス用を目指したPCでジャストシステムの日本語ワードプロセッサ「JS-WORD」と表計算ソフト、マイクロソフト「マルチプラン」が素晴らしかった。
ジャストシステムの「JS-WORD」はその後「太郎」、「一太郎」と発展して現在に至る。
表計算ソフトはより高性能だったロータスの「1-2-3」に市場を奪われ、さらにマイクロソフトExcel」が奪い返した。
この頃HDDを初めて入手、3.5インチで40MBだった。
今じゃ、SDカードでも入手が難しいほど容量が少ないが、当時はDOSでは使い切れないほど容量が大きいと感じていた。


諏訪精工舎は、もし開発中止をしなかったらIBMを超える世界一のコンピューターメーカーになったかも知れない。
この会社は後に社名が「セイコーエプソン」と変わり、世界最小の親指の爪程のプリンターと世界最大の横幅16mのプリンターを開発して世界を驚かせ、「エプソン」という社名のプリンターで有名なメーカーになった。


ある時、ハヤック2000という両袖事務机ほどの大きさのコンピューターのジャンクを入手した。
某企業が事務用として一部上場前に使っていたもので、まだ、CPUの無い時代の代物で紙カードリーダーとパンチャそれに紙テープリーダーとパンチャが両袖にあり、中央にIBMのゴルフボールタイプライタがありA4の紙にも印字できたが英数字と記号とカタカナしか印字できなかた。
メモリはコアメモリだった。
電源トランスだけで30cm四方ほどあり、家庭用100Vで動いたが、我が家の電力の全てを使い切る。
電力計がモーターみたいに回るのを家内に発見されて、使用禁止になってしまった。
使わない物を置いておくほど我が家は広くないので、屑鉄屋に売ってしまったが接点が金メッキでは無く箔を貼ったものだったので入手したより高値で売れた。


俺はパソコン自作派になったが、金が無いのでこれといって特徴のあるパソコンは一台も残ってない。
DELLのジャンクのワークステーションを修理して長年愛用していたが長女が仕事用のパソコンが壊れたというので譲ってしまった。
現在使用しているパソコンは非力なWindows10のものと、さらに非力なLinuxのものだけ。

 

正月から高齢者の運転する自動車事故が多い

俺は建設関係の仕事をしていた都合で自動二輪や普通車の他、特殊車や大型車などの免許も持っていたが73歳の時、普通車の車検直前に免許証を返上した。
免許取るのに金と時間を沢山かけたが、ユンボもクレーンもダンプも70歳を超えたら無用だ


返上を決意したのはテレビの高齢者の事故報道と高齢者講習の運転技能検査の成績の悪さ。
それでも気を付ければ大丈夫と思っていたが、気が付くと車線をはみ出す、停止線は超える、赤信号は突っ走る。


思い切って免許返上し、車を処分した。
確かに不便だが、他人の人命を犠牲にするほどの便利さが得られる訳でもない。
メリットは多い、車検料、ガソリン代、保険料、マンションの駐車場代などが全ていらない。
デメリットはタクシー代、電車代、といった所だがマンションの駐車場代にも満たないので大幅なコストカットになる。
その他のデメリットとしてタクシーが来るまで待たないといけない、近くは歩いて行くので疲れる、重いものを運べない、何をするにも時間がかる、釣りに行けなくなった、などだが、3年程たった現在、もっと早く返上すれば良かったと思ってる。
釣りがちょっと未練だったが、10年前家内の病気とともにボートを処分、4級船舶の免許の更新を止めたので釣行はすっかり少なくなっていた。

昔の仕事仲間の友達は「俺の勲章だから一生持ってる」と云ったが2年後にコンビニに突っ込んで1人巻き添えに逝ってしまった。
ブレーキとアクセルの踏み間違いが原因だった。
本人は即死だから何の後悔もないが、家族と被害者の家族が地獄に落ちた。


聞いた話によると、中国では70歳で強制的に運転資格がなくなり、どんなに田舎に生活していようと、近くに売店が無くても、歩く以外の交通手段が無くても事情は認められず、特例は無いそうだ。


家内の郷里は小さな島なんだけど、ナンバーもドアも無い廃車が走ってるし、小学生でも運転してる。
島内に信号機は1つも無く、派出所の建物は一応有るが廃屋で警察官がいない、ある意味天国かも。

2023年正月に思うこと

今年の正月も例年通りの寝正月。
買い置きのおせち料理と雑煮を食べ、年賀状を確認する。
昔は100枚程度来ていた賀状も今は5枚だけ、この習慣も絶滅危惧種だな。


昼飯は冷凍パスタをチンして終わり。
昔と違って冷凍食品といっても結構旨い、良い時代になったもんだ。


去年の正月は俺の体調が悪かったので、介護サービス会社から派遣されたヘルパーがおせちを作ったのだが、料理なんて家族の為にも作ったことが無いのではないかと思うほど下手で不味い。
来年も芽がでますようにと買ってあったクワイ芋も、「此処は苦いから」と云って芽の部分を残さず切り落とし、ただの里芋のようにしてしまった。
此奴は何も知らないんだろうな、もっと色々な家庭で恥をかいて来るべきと思って敢えて教えて遣らなかった。
こんなヘルパーは即刻クビにして料理は俺が作ることにした。
唯の主婦が小銭稼ぎでやってるヘルパーには限界があるし、食事の配達サービスは食中毒を恐れて濃厚な味付けで、糖尿病にまっしぐら、とてもじゃないが老人の食べ物じゃない。


俺だって家内が脳梗塞になるまでは料理なんて造ったことが無かったが、急遽書店へ走り数冊料理本を買って全て自分で作り始めた。
基本的な事さえ判れば料理なんて簡単だ。
ちょっと面倒なのは食事時間より前に造る時間も含めて何を食べるか決めておかなければ、腹が減ったが喰うものが無いという事になる。
計画的に生きるような生活をしたことがなく、成ったなりの生き方しかしてこなかった。
フーテンみたいな人生を送ってきた報いだ。


家内は病気になるまでは料理が得意で、ウドンやパスタ、パンも粉から造るなどしていたが、全部忘れた。


友達7人連れてラスベガスへ遊びに行き、3ヶ月前に予約の必要な有名なショーをいきなり行って特等席を8人分を用意させたり、パスポートが見つからなくなった友達を歯医者の診察券で飛行機に載せたりの交渉が英語でできたのに、今はサッパリ駄目、物の名前、人の名前、スマホの操作、全部忘れて得意だった英語も今は「NHK」が言えない。
娘の名前も親の名前も友達の名前もみんな「お父さん」、だから会話がなかなか成立しない。
沢山いた友人も全員離れていった。


こんな嫁を残して俺が先に逝く訳には行かないから気を引き締めて生活しないといけないんだが、俺がちょっと病弱気味なのが気になる。